チャイコフスキー 交響曲第6番 ロ短調 作品74『悲愴』
ロシアの生んだ天才作曲家
ロシアで最も尊敬されている作曲家といえば、グリンカだそうですが、世界的に最も愛されているロシアの作曲家はピョートル・イリイチ・チャイコフスキーPeter Ilyich Tchaikovsky (1840-1893)だと思われます。
三大バレー『白鳥の湖』『眠れる森の美女』『くるみ割り人形』はとても有名ですし、その他にも、『四季』に代表されるピアノ曲、『エフゲニー・オネーギン』に代表されるオペラ、その他、協奏曲や室内楽の数々、そして忘れてはならないのが文学性豊かな歌曲の数々、そして『悲愴』に代表される交響曲など、ほぼすべての分野で傑作を残しています。
チャイコフスキーと言えば、同性愛者であったことや、自殺で亡くなったと言われていたこと、そして、作曲においてスランプに苦しんだことなど、やや暗いイメージもある作曲家です。『白鳥の湖』などは、単に美しいというだけでなく、凄みや恐ろしさまで感じさせる曲なので、そのイメージを強めているかもしれません。
作曲に苦しんだチャイコフスキーですが、それも才能の裏返しのようなところがありました。極めて優れた曲を作曲できたから、苦しんだのです。作曲家としてのスタートが遅かったチャイコフスキーは37歳の時、『白鳥の湖』を作曲しました。作品番号は20で、比較的若い番号です。作品そのものは周知のように素晴らしいものですし、チャイコフスキーも自信があったのですが、上演のまずさもあり、世間に受け入れられませんでした。このようなことが重なったのも生みの苦しみを助長したのかもしれません。
チャイコフスキーとブラームス
そんなチャイコフスキーと好敵手の関係にあった作曲家がドイツにいました。少し年上になりますが、ブラームスです。その才能はまさに肉薄したものでした。
この二人に関しては、主にその違いについて、いろいろなところで述べられてきました。
チャイコフスキーが時にスランプに苦しみながら作品をつくる作曲家であり、ブラームスがこつこつと着実に名曲を作曲していくような作曲家であった点。両者のヴァイオリン協奏曲を比較すると、チャイコフスキーがメロディーを中心としたものであり、ブラームスが内声部を重視したものであること(チャイコフスキーはブラームスのヴァイオリン協奏曲のことを「台座だけの彫像」と表現しました)そしてチャイコフスキーがオペラに傑作を残したのに対してブラームスはオペラを作らなかった点、などなど。
しかし、実はこの二人、深いところでとても重要な共通点があると私には思われてなりません。そのことは両者の誕生日(5月7日)が同じであることが象徴しているようです。まず、二人が音楽史上、まれにみる天才で、ともに素晴らしいメロディーメーカーであった点。また両者共にシューマン譲りの文学性の高さを感じさせる素晴らしい歌曲を残しています(チャイコフスキーのものでは『舞踏会の喧騒の中で』や『ただ憧れを知る者のみが』など)この二つの共通点は、細部の特徴ではなく、大きくとらえたものですが、実はとても重要な要素です。ですから、それ故に、二人はお互いに認め合っていたのです。
チャイコフスキーはグリーグについて述べるとき、このように発言したといいます。
「あのブラームスほどの才能はないが、素晴らしい作曲家です」
また、チャイコフスキーの第5交響曲の演奏会後、二人は会食してこのような会話をしました。
ブラームス:「第3楽章までは素晴らしかったね」
チャイコフスキー:「私もそう思います」
交響曲第6番 ロ短調 作品74『悲愴』
チャイコフスキーが人生の最後に作曲したのが交響曲第6番『悲愴』です。4つの楽章からなるこの交響曲に非常に特徴的なのは、緩徐楽章が終楽章に置かれていることです。先に述べました第5交響曲で第4楽章、つまり終楽章があまり良くなかったかのようなブラームスの発言でしたが、これは「フィナーレ問題」というものです。それまでの楽章の音楽とつながりが不自然になってしまったりなど、最終楽章で上手にまとめることの難しさを表す言葉ですが、この第6交響曲『悲愴』はそのフィナーレ問題を克服したと言われています(私は第5交響曲のフィナーレは素晴らしいと思いますが)本来、第2楽章もしくは第3楽章に置かれることの多い緩徐楽章を、最終楽章に持ってきて、第1楽章から第3楽章までがそこに向かって準備されているいることがよくわかる構成となっているのです。
まさに、クライマックスのこの第4楽章が聴きどころです。アダージョとしては異例なほど激しく、密度感のある、怖いくらいの美しい楽章です。この曲を聴いていると、チャイコフスキーがメロディーのみに優れた作曲家であるのではなく、内容も充実した、素晴らしい構成力の作曲家であることが分かります。もしこの交響曲が作曲されていなかったら、交響曲の歴史はとても寂しいものになっていたことでしょう。そのくらいの傑作であり、交響曲における金字塔であると私には思われます。
お勧めの演奏
①エフゲニー・ムラビンスキーEvgeny Aleksandrovich Mravinsky指揮 レニングラード・フィルハーモニー交響楽団 盤 1960 Deutsche Grammophon
まさに、ザ・悲愴という演奏です。ムラビンスキー(1903-1988)が尊敬したドイツの指揮者アーベントロートの『悲愴』に大きな影響を受けていることが分かります。スケールの大きさ、激しさ、美しさ、そして凄み、どれをとっても一流で、磨き抜かれています。極めて有名な演奏で、私が一番初めにはまった『悲愴』です。お国ものでもありますし、本物のかおりのするお勧めの演奏です。入手もとてもしやすいです。チャイコフスキーはおそらくこのような演奏を想定していたのではないかと思わせます。
②ロヴロ・フォン・マタチッチLovro von Matačić 指揮 NHK交響楽団 盤 1967 NHK CD
ウィーンで教育を受けて、ドイツものを得意とするマタチッチ(1899-1985)ですが、クロアチアの貴族であり、スラヴの血がそうさせるのでしょうか、チャイコフスキーも素晴らしい演奏が残っています。また、マタチッチは初めてN響の音を聴いた時、「なんていい音なんだ」と、一目ぼれをしたといいます。マタチッチは優れた指揮者ですから、どこのオーケストラを振っても素晴らしいのですが、私はN響との共演が一番好きです。N響はマタチッチの最高の楽器だったのではないかと思います。指揮者とオーケストラの全団員が同じ方向を向いており、それはクオリティー、スケールにおいてはムラビンスキー、レニングラード・フィルに匹敵するもので、それに加えて、細やかで温かい独特の歌にあふれたものになっています。とりわけ、60年代から75年までの共演に優れたものが多く、75年の第5交響曲のライブ録音も強くお勧めしたい演奏です。
③アルヴィド・ヤンソンスArvīds Jansons 指揮 ドレスデン・シュターツカペレ 盤 1971 WEITBLICK
このころのドレスデン・スターツカペレは現代風とは違う、古式豊かな、素晴らしいオーケストラです。そんなオーケストラと、東京交響楽団との縁の深いアルヴィド・ヤンソンス(1914-1984)との共演です。第四楽章冒頭の暗さは深く、非常に激しいところもある演奏で、アルヴィド・ヤンソンスの悲しみの深さのようなものすら感じさせる演奏です。レニングラード・フィルでムラビンスキーの下、副指揮者をつとめていた彼ですが、ムラビンスキーと全く違う演奏であるところも素敵です。
アルヴィド・ヤンソンスの悲しみ
『悲愴』という交響曲は、たくさんの良演に恵まれた作品です。非常に多くの指揮者、オーケストラがとりあげていることから、この曲がいかに素晴らしいかがうかがい知れます。このブログで初めて日本のオーケストラをとりあげましたが、N響とマタチッチの演奏も素晴らしいものです。実は過去、もったいないほど優れた指揮者がたくさん来日し、日本のオーケストラと素晴らしい関係を築いていました。カイルベルト、サヴァリッシュ、スウィトナー、コシュラーなどなど、枚挙にいとまがありません。
そのなかでもアルヴィド・ヤンソンスと東京交響楽団との関係は涙なしには語れないものです。東響の経営危機に際して、団長の橋本氏が友人であるレニングラード・フィルの副指揮者アルヴィド・ヤンソンスへ電報を打ちます。「予定の公演の件ですが、公演料をお支払いすることができなくなったのです…」アルヴィド・ヤンソンスは公演料の心配はない旨の電報を打ち、直ちに単身、船で横浜へ向かいます。ウラジオストックで再び、東響のために尽くすため、すぐに横浜に到着する旨の電報を打ちますが、橋本氏は電報を受け取っておらず、アルヴィド・ヤンソンスが港に着く4時間前に自ら命を絶っていたのです。それを知ったアルヴィド・ヤンソンスはその場に泣き崩れたと言います。
アルヴィド・ヤンソンスの来日の少し前に東響は解散して、橋本団長はその責任を感じていたのでした。そして橋本団長との約束を守りアルヴィド・ヤンソンスは東響の再建と発展に労を惜しまなかったのです。彼の『悲愴』を聴いていると、その一件のことが頭に浮かんできます。港で橋本団長の姿を探すアルヴィド・ヤンソンスの姿が見えてくるのです。
まとめ
人は皆それぞれの悲しみをもっているのではないかと思います。チャイコフスキーの『悲愴』を演奏するとき、その演奏者の悲しみの深さが表現され、聴く者の心の琴線に触れるのではないでしょうか。お勧めに挙げ切れなかった演奏にも、たくさんの素晴らしい『悲愴』がありますが、それらはみな、悲しみを知る人の演奏だと感じます。それにしても、チャイコフスキーはなんという曲を作ってしまったのでしょうか。そう思わずにはいられません。それは音楽史上の奇跡であり、様々な苦難も経験したチャイコフスキーにしかなしえなかったことです。『悲愴』は苦難の末にできた果実ですが、私には、創造、そして希望を象徴する作品でもあると思われるのです。
(参考サイト)『海外オーケストラ来日公演記録抄』(本館)
より ヤンソンスと橋本東響団長(1964)(昭和三十九年)
http://www003.upp.so-net.ne.jp/orch/page223.html
素敵なホームページで参考にさせていただいています。
いつもありがとうございます。